100s 「Honeycom. ware / B.O.K」
TOCT4783 ¥1,050

 これほどまでにレビューというフォーマットを使って言葉を綴るのが難しい音楽は無い。いや、俺が今まで生きて来た中で一度も無かったと言っても過言では無いと思う。故に、この僕のレビューに辿り着くまでにちょっとしたギミックを使わせてもらった。「本当に君たちは僕の言葉を必要としているの?」と。だって、発売前に試聴した瞬間のあの衝撃。あれはもう一生消えないし、発売されてから改めて歌詞を噛み締めて聴きなおした時の衝撃も消えない。その衝撃を言葉として表現するのがとても困難だった。だから締め切りのないホームページという自由な場を利用している僕は、甘えに甘えさせてもらって、この音楽を言葉として綴ることが出来るタイミングをずーっと自分の中で見計っていた。で、今に至る。が、それでもまだ言葉が、声が言葉にならない。これは、音楽を語ることを生業としていると断言している人からすれば明らかな逃げかも知れない。甘えと逃げだ。でも本当にこの音楽は、第三者の言葉を介さずにまず聴いてもらいたいということ。偏見なんかかなぐり捨ててなりふり構わず取り合えず聴いてくれと。ようは、「必聴」。この二文字の言葉を書き連ねていると、今までレビューというフォーマットでこの二文字をあからさまに軽く使い続けた来た罰が当たったかのような感触も沸いてきてしまう。ああいやだ。言霊は怖い。生きているんだ、言葉ってもんは。

 メロトロン。イントロに鳴り響くメロトロン。もしかしたらメロトロンじゃないのかもしれないけれど絶対にメロトロンだろうと俺は断言。かのビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」のイントロに鳴り響くあれだ。深遠なる響き。歴史が過去ではなく現在に蘇る感覚。その後にバスドラが4つ打ちを鳴らす。ふだん僕らが暮らしている心音、脈拍よりちょい上げぎみのBPM。ふわっとなる。その後から入ってくるハイハットが、左右のチャンネルからギターのカッティングが、そのバスドラに踊らされた心音のパルスに反応するかのように幾何学的に鳴り響く。ハットとカッティングの刻みが、鳴りのコントラストが絶妙に絡まる。とはいいつつも音数が少ないせいもあって隙間はある。なのにその隙間さえも、無にさえも何かの感情を捕われるかのような感覚。オルガン(ピアノか?)も鳴る。このオルガンの旋律がすでに来るべく唄メロのボトムを鳴らすかのように。タムも鳴る。空から地平に落ちてくる星屑が心の奥底にストンと響き渡るように…。まだベースも歌詞も聴こえないこの数秒の間だけで脳髄を刺激されてしまう。

 そして唄が始まる。いや、その前にベースラインに聴き入ってしまうしまう自分がいる。このベースラインが地を這うようにうねるのだ。決してダンスミュージックとしての機能を有機的に作用させようなんて思ってもいないであろう彼らのはずなのに。ドラムとベースだけ抜いて他の楽器を消して聴いてみたいくらい。それほどまでに思わせる原初的なハウスミュージックとしての鳴りが表れて来そうなのだ。故にそれは肉体的なものであるということで。そして歌詞。“BACK ON!”と聴き間違えをしても許されるような言葉、“爆音”という言葉の連呼。そして、“憂いな”と。“光る目にジーザス”と。ああ、もうここで語るのが億劫になってしまう。わかるだろうよ、と。そんなん、俺がこ難しいこと言わずともさあ、と。駄目だ。でも、でも、語ろうと思えば語れるのは確かなんだ。“ジーザス”という言葉を使ったという事実。この勇気に尊敬の念を抱いてしまうのだ俺は、とか、“(脳裏のライト)”“(どうかしたんだ、世界)”というふうに、中村一義がいままではあえて避けて来たファルセット部分の聴き辛い部分までをも歌詞カードに記載したという事実はどうだ、とか。いやはや特筆すべきところはやはり、“君が望むなら、しな”“心、生きるなら”“僕らやれるのならしな、しな、それで死ねるなら”という部分だ、とかさ。かの『セブンスター』で“見たい”と“いたい”と希望的な言葉で表現していた心の部分、唯心的な部分をより強固にし、聴き手を、または自分達にさえも突き刺すような突き放すような言葉で表現している所が圧巻だ、と。そして、“光る/スルー”、“光るブルース”、“光る/来る”という韻を踏んだ三つの流れに涙してしまう、とか。結局語れないとかいいながら語れてしまうんだけど、こういうところだけをピックアップして終わらせてしまいたく無いという感情が沸き起こっているからこそ、億劫になって語る意力が無くなってしまっているのだと思う。

 さあ、ここで改めて思う。結局歌詞に付いて言及して語ろうと思えば語れるとして(現に語ってしまったし、多少)、なぜ僕は歌詞だけを引用してこの楽曲を語り尽くして、はいさようなら! にしたくないのだろうか? というところを改めて思ってみる。それは、もう、さ、この楽曲の全ての音ひとつひとつに魂が込められていて、びっしびしと全身に、脳髄に、心に響いてくるからなんですよ、っていきなり敬語になってしまうんだが。いや、それも本当にしょうがないっす。実際問題そうなんだ。すべてが来るんだよ。すべての音が。歌詞という言葉は当たり前のようにダイレクトに飛び込んでくるものだからそれはそれで本当に素晴らしいのだが、いやはや、すべての音が唄っているし光り輝くかのように鳴っている。これは逆説的に歌詞にも言えることで。歌詞が鳴っている、光っているという表現さ。ようは、100sの6人が個々それぞれに鳴らすべく出すべく音魂を個々それぞれの最大限のレベルを振り絞って、でも繊細に、緻密に、まるで闇の中に光り輝くパーツをちりばめながらも、何次元か計り知れないくらいの立体的なパズルを組み立ててしまったかのような楽曲に仕上がっているからだ。

 イントロ部分の宙を舞う煌めく16分をゆらりと刻むギターの上音も然り、サビ部分の“爆音”というフレーズの後になる“ブッ!”っていう音だって耳障りなほど入ってくるし、サビ部分のドラムの生音のハイハットとは別に刻まれるチキチキな電子音的高音も聴き取ることが出来る。決して過剰ではなく、全ての音が絶妙に配置されている。要所要所で挟み込まれるドラムのフィルの音色も変化するし、ギターソロのバックに流れる、まるで宇宙遠く彼方にまで連れて行かれるワープのような音彩。そして、ギターソロ後の静寂の裏側、唄が鳴る後ろで、ビートに合わせて左右のチャンネルに揺れるメトロノームのような音にも耳を奪われ、タム、ハットが鳴り、ようやくここで全面に出てくるハンドクラップを聴き、生身の人間がこの楽曲を鳴らしているんだと現実に引き戻される。そして、サビ前のガラスが割れるかのような音。ここではじける。閉ざされた教会、エゴと権力によって創り上げられた宗教によって創り上げられた教会に閉じ込められた僕が、ジャケットのモチーフになっているようなステンドグラスを突き破って飛び出すような感覚。もうなんなんなんだよ! ってくらい様々な音色が様々な場面であらわれる。ようは、これは、見方によっては創り込み過ぎじゃないのか? と。過剰なプロダクションだよ、これ、と言われそうな楽曲なのだが、たった数分の試聴だけでも心奪われてしまうのだから、単なるレコーディングでの緻密な計算によって創りあげられた作為的なものではないのだ。そうなのだ。ここでやっと帰結することが出来る。どこに?

 そう、何故、僕はこの楽曲に対して語ることをためらっていたか。それは、今まで中村一義という1人のアーティストが芳醇な音楽観の元、個の世界を必死に眺めながら、必死に音を構築して行くという、あの『ERA』の楽曲のような音楽世界を創りあげたなら未だしも、それとはまた次元の違ったものを100sというもので表現しているからだからなのだ。中村一義という1人の人間の感ずることろを、僕という1人の人間が感じようと歩み寄るのは、実は簡単だ。1対1での会話を自分の中で咀嚼すれば解決することだから。でももうすでにこの楽曲には「個」中村一義だけでは語り切れない計り知れない100sという共同体の世界観を通して構築されているのだ。だからだ。だから僕は言葉を語る術を失っていた。

 『セブンスター』という楽曲で、100sの6人と僕らが加わって7つの星になるという発言をしていた彼等は、実は欠けていた7つ目の星を探し求めて旅を続けて来たのかも知れない。しかし、それには6つの星が頑強に、結束力を高め、7つ目の星にもっともっと真摯な音を掲示しなければ収集がつかない所まで来てしまったのだと思う。それは、7つ目の星という僕らが彼等に求められているという安住の地にいつまでも居続けてしまわないようにということも含まれているのだろう。

 目に見えないもの、音。そして、愛。両方とも掴んでも掴んでも掴み切れないかたちないもの。でも、感じる心に刻まれればそれは掴んだということだ。その両方を掴み切るには尋常じゃないパワーを必要とする。ウソやエゴや馬鹿や偽者に騙されながら、正しき心を持ち続けなければならないから。それを持ち続けて生きて行かなければ行けないから。僕はそう思う人間だから、する。まだ死ねないから、死なない。

 やっと語れたような気がする。

 この楽曲「Honeycom.ware」に対して。

 みなさんはどう感じましたか?

追記:

 本当はカップリングの曲に対してもレビューを書くつもりでしたが、力尽き果てました(04.10.27の3:30時点で)。後々できれば、カップリングの曲にも言葉を添えたいと思います。だって、カップリングの曲合わせて3曲。これだけで1つのアルバムが出来上がってしまいそうな、そんな壮大な感覚を掴んでしまったから。
 あ、でも、そんな感覚を軽く飛び越えてしまうようなアルバムを彼等は創りあげるのだろうと思って期待してしまうと、なんか落ち着いてしまう自分がいて。そして、そんなことを軽々しく言ってしまっている僕は、彼等にプレッシャーを与えてしまっているような気がして。でもそれはすべて自分に跳ね返ってくるんだよって自分に言い聞かせてみたりして。という感じです。

 

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